漁業サプライチェーンにおける人身取引リスクの特定と予防的デューデリジェンス:国際労働基準とトレーサビリティ技術の応用
はじめに
世界の漁業サプライチェーンは、食料安全保障と生計維持に不可欠な役割を担う一方で、人身取引や強制労働といった深刻な人権侵害のリスクを内包しています。特に遠洋漁業や養殖業の一部においては、複雑なサプライチェーン構造、国境を越えた労働者の移動、そして監視の目が行き届きにくい海洋という特殊な環境が、これらのリスクを増大させる要因となっています。本稿では、漁業サプライチェーンにおける人身取引リスクの特異性を分析し、国際的な人権基準に基づく企業の予防的デューデリジェンスのあり方、トレーサビリティ技術の応用、そしてNGOとの連携の重要性について、詳細な考察を提供いたします。
漁業サプライチェーンにおける人身取引リスクの特異性
漁業サプライチェーンにおける人身取引リスクは、その性質上、陸上産業とは異なる複数の要因によって複雑化しています。
1. 地理的・法的要因
遠洋漁業では、漁船が長期間、排他的経済水域外や公海で操業することが一般的です。これにより、旗国法の適用が困難になる、あるいは管轄権の曖昧な領域で人権侵害が発生する可能性が高まります。また、「便宜置籍船(Flags of Convenience)」の利用は、労働基準や安全衛生基準の執行をさらに困難にし、人身取引のリスクを看過しやすくします。複数の国籍を持つ労働者が多様な国籍の漁船で働き、漁獲物が様々な国を経由して加工・販売される多層的なサプライチェーンも、責任の所在を不明瞭にしています。
2. 労働条件と脆弱性
漁業における労働は、しばしば長時間労働、過酷な肉体労働、そして劣悪な生活環境を伴います。特に遠洋漁船上では、陸上との接触が限られ、労働者は孤立しがちです。また、貧困や債務を抱えた移住労働者、難民、あるいは非正規の身分で働く人々は、借金漬け(債務奴隷)やパスポートの没収といった形で自由を奪われ、強制労働の状態に陥りやすい脆弱な立場にあります。言語や文化の壁、法的保護に関する知識の欠如も、彼らが助けを求めることを困難にしています。国際労働機関(ILO)や国際移住機関(IOM)の報告書は、こうした実態を繰り返し指摘しています。
3. サプライチェーンの不透明性
漁業サプライチェーンは、漁獲から加工、流通、そして小売に至るまで、多数の仲介業者やブローカーを介することが多く、その全体像を把握することは極めて困難です。この不透明性は、人身取引の隠蔽を容易にし、企業が自社のサプライチェーン全体における人権リスクを特定・評価することを阻害します。
国際労働基準と人身取引対策
人身取引と強制労働は、国際人権法および国際労働法において明確に禁止されています。企業が漁業サプライチェーンにおける人権リスクを管理する上で、以下の国際基準の理解と適用は不可欠です。
1. 国際労働機関(ILO)条約
- 強制労働条約(第29号)および強制労働廃止条約(第105号): あらゆる形態の強制労働の禁止を定めています。
- 2014年強制労働議定書(P29): 現代の強制労働に対処するため、予防、保護、救済措置の強化を求めており、特に脆弱な労働者への対策を重視しています。
- 漁業労働条約(C188): 漁船員の労働条件に関する包括的な基準を定めており、雇用の安定、労働時間、休息、給与、安全衛生、社会保障など、多くの側面で労働者の保護を目指しています。この条約の発効は、漁業分野における人権尊重の重要な基盤となります。
2. 国連ビジネスと人権に関する指導原則(UNGP)
UNGPは、国家の「人権を保護する義務」、企業の「人権を尊重する責任」、そして被害者への「救済へのアクセス」という3つの柱を定めています。企業の人権を尊重する責任は、サプライチェーン全体における人権侵害のリスクを特定し、予防し、軽減し、その影響を是正するための「人権デューデリジェンス」の実施を求めています。
3. OECD責任ある企業行動のためのデュー・デリジェンス・ガイダンス
このガイダンスは、UNGPの実践的適用を補完し、企業がサプライチェーン全体で人権およびその他の責任ある企業行動(RBC)関連のリスクをどのように特定、評価、優先順位付け、および対処すべきかについて、より詳細な指示を提供しています。
企業に求められる予防的デューデリジェンスの実践
漁業サプライチェーンにおける人身取引リスクに対処するためには、以下のデューデリジェンスプロセスを体系的かつ継続的に実施することが不可欠です。
1. 方針の策定とコミットメント
企業は、人権に関する明確な方針を策定し、これをサプライチェーン全体に伝達する必要があります。特に、人身取引および強制労働をいかなる状況下でも容認しない「ゼロトレランス」の原則を明確に表明し、取締役会レベルでのコミットメントを示すことが重要です。この方針は、国際人権基準、特にILOの中核的労働基準に準拠していることを明記するべきです。
2. リスク評価と影響評価
- サプライチェーンのマッピング: 漁船、養殖場、加工工場、仲介業者、運送業者、そして漁獲物が消費者の手に届くまでの全ての段階を網羅的に特定し、関係者を可視化します。
- 地理的・製品・ビジネスモデルリスクの特定: 人身取引の高リスク地域(例:ILOやIOMの報告書で指摘される地域)、特定の漁種(例:マグロ、エビなどサプライチェーンが複雑になりやすいもの)、そして多重下請け構造やブローカーの利用といったビジネスモデルに内在するリスク要因を詳細に評価します。
- 第三者監査と技術的監視: 独立した第三者機関による現場監査は、リスク評価の有効な手段ですが、形だけの監査に陥らないよう、労働者への秘密聴取や複数言語での対応が不可欠です。また、AIS(自動識別システム)データによる漁船の追跡、衛星監視、そして漁船内でのCCTV(閉回路テレビ)設置などの技術活用も、一部のリスク特定に寄与します。
- 労働者への直接的な聞き取り: 労働者の声を聞くことは、最も信頼性の高い情報源の一つです。独立した通訳を介した秘密裏の聞き取り調査は、監査の有効性を高めます。この際、言語の壁、文化的な背景、報復への恐れに配慮した設計が不可欠です。
3. 是正措置と苦情処理メカニズム
人権侵害が特定された場合、企業は迅速かつ効果的な是正措置を講じなければなりません。これには、被害者の保護と救済(例:医療、心理的支援、賃金未払いの補償)、そして再発防止策の導入が含まれます。 効果的な苦情処理メカニズムの構築は、リスクの早期発見と是正に不可欠です。このメカニズムは、労働者が報復の恐れなく利用でき、多言語に対応し、かつアクセスしやすい形式でなければなりません。NGOや労働組合との連携を通じて、その信頼性と実効性を高めることが推奨されます。
4. 追跡評価と報告
デューデリジェンスのプロセスは一度行えば終わりではありません。企業は、是正措置の効果を継続的にモニタリングし、設定したパフォーマンス指標に基づいて進捗を評価する必要があります。また、現代奴隷法報告書など、関連する国内外の法規制やイニシアティブに従い、人権デューデリジェンスの取り組みとその成果について透明性のある報告を行うことで、説明責任を果たします。
トレーサビリティ技術の活用と課題
近年、ブロックチェーン技術、RFID(Radio-Frequency Identification)、DNAマーカー、IoTセンサーなどの先端技術が、漁業サプライチェーンの透明性向上に貢献する可能性が注目されています。
- 捕獲から消費までの追跡: これらの技術を導入することで、漁獲された魚がどの漁船で、いつ、どこで捕獲され、その後どのような経路を辿って加工、流通されたかといった情報を、改ざん不能な形で記録・共有することが可能になります。これにより、違法・非報告・無規制(IUU)漁業の排除だけでなく、人身取引や強制労働のリスクが高い漁獲物を特定しやすくなります。
- データの信頼性: ただし、技術の導入だけでは不十分であり、データの入力段階での正確性確保、サプライチェーン全体での技術導入への協力、そして小規模漁業者や途上国における導入コストとインフラの課題など、乗り越えるべきハードルも存在します。技術はあくまでツールであり、その運用には強いコミットメントとガバナンスが伴う必要があります。
NGOと企業の連携、NGOによる提言の視点
国際人権NGOは、漁業サプライチェーンにおける人身取引問題の解決において極めて重要な役割を担っています。
- 現地情報と専門知識の提供: NGOはしばしば、人権侵害の現場で活動しており、企業や政府機関では得にくい具体的な情報や、労働者の実態に関する深い洞察を持っています。これらの情報は、企業のリスク評価の精度を高め、効果的な是正措置を策定する上で不可欠です。
- 情報共有と共同調査: NGOは、企業がデューデリジェンスの取り組みにおいて直面する課題を理解し、その解決に向けて、情報共有や共同での実態調査を通じて貢献することができます。また、NGO独自の調査報告書は、企業にとって外部からの監視と改善圧力となり、デューデリジェンスの実践を促す原動力となり得ます。
- 能力構築と苦情処理メカニズムの支援: NGOは、労働者や地域コミュニティに対する人権教育、権利に関する意識向上活動を行っており、これを通じて企業の苦情処理メカニズムの利用促進や、被害者への適切な支援提供をサポートすることができます。
- 政策アドボカシーにおける国際基準の活用: NGOは、政府や国際機関に対し、漁業分野における人権保護を強化するための法整備や政策変更を提言する際に、ILO条約、UNGP、OECDガイドラインといった国際基準を根拠として活用しています。企業に対しては、これらの国際基準に沿ったデューデリジェンスの実践と、その結果の透明な開示を求めることが、具体的な提言の視点となります。
結論
漁業サプライチェーンにおける人身取引は、複雑で根深い問題であり、その解決には企業、政府、市民社会組織が一体となった複合的なアプローチが不可欠です。企業は、国際的な人権基準に基づく予防的デューデリジェンスを継続的に実践し、サプライチェーンの透明性を高めるためのトレーサビリティ技術の活用を推進する必要があります。また、NGOが持つ専門知識、現地情報、そしてアドボカシー能力は、企業の人権リスク管理を強化し、実効性のある是正措置を講じる上で計り知れない価値を提供します。この分野における継続的な努力と多様なステークホルダー間の連携こそが、人身取引のない持続可能な漁業サプライチェーンを実現するための鍵となるでしょう。